これだけは!歴史年号語呂合わせ 24選 第14回
こんにちは。
講師亀崎です。
今回は、コレです。
1853年 黒船(ペリー)来航
「人はゴミのようだ 黒船来航」
出ました!
当時、米国海軍東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる黒船4隻が日本に来た事件です。
「開国シテクダサーイ!」とペリーが言ったとか言わなかったとか。
日本をひっくりかえす「明治維新」の契機として有名ですよね。
この基本的な流れについて押さえていきましょう。
このような狂歌(風刺や皮肉が込められた短歌)をご存じないですか?
泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず
これは、黒船が三浦半島の浦賀(神奈川県)に来航した直後に流行ったといわれています。
当時の、日本人の反応の大きさがうかがえるのではないでしょうか。
「泰平の眠り」とは、開闢以来250年ずっと平和だった江戸幕府と日本人を表しています。
「上喜撰」とは当時の高級茶のブランド名で、「蒸気船」とかけています。
上喜撰を飲んで目が冴えるように、蒸気船のインパクトが強くて夜も寝られない、と。
なかなか上手いことできてる歌ですね。
さすが200年近く語り継がれているだけはあります。
ところで、アメリカはなぜ日本に開国を求めてきたのでしょう?
当時、アメリカは産業革命からの流れで工業化が著しい状況でした。
作業をするにあたって明かりが必要なのですが、その燃料としてよく使っていたのが鯨油でした。
クジラからとれる油です。
このことから、アメリカで盛んに捕鯨をするようになりました(もちろん食用もあります)。
太平洋でも捕鯨が盛んになったのですが、なにしろ大きいですよね、太平洋。
捕鯨船や(それが事故を起こしたときに救助する)海軍は、燃料・食料補給地が必要となりました。
そこで、太平洋の対岸というべき日本に目をつけて、開国を要求した、ということですね。
※もちろん、ほかにもいろいろと理由があります。
ここから、黒船来航以降の流れを見ていきましょう。
ペリーは開国を要求する国書を幕府に提出しました。
当時の老中首座・阿部正弘は国書を受け取ったものの、
「(第12代)将軍(徳川家慶)はご病気ですぐに返答はできないので1年待ってほしい」
と、回答。
そしたら、ホントに黒船がまた来た、と。
こうして1854年、日米和親条約が締結されます。
このとき、下田と函館(当時箱館)が開港されました。
また、日米和親条約によってアメリカは日本領事を設置しました。
それでやってきたのが初代日本総領事のタウンゼント・ハリスです。
彼は、日米間で通商条約を結ぼうと画策。
そして和親条約から4年後の1858年に、日米修好通商条約が結ばれました。
これに調印したのが、大老・井伊直弼です。
この条約こそが、かの有名な「不平等条約」です。
・日本はアメリカに領事裁判権を認める
・日本に関税自主権はない
重要ですね~。
これらは、アメリカだけではなく、イギリス・ロシア・フランス・オランダも同様です。
「アメリカに許可するなら、ウチも」って感じです。
余談ですが、不平等条約撤廃に時間がかかりました。
先に改善できたのは、領事裁判権です。
1894年の日英通商航海条約ですね。日本全権は陸奥宗光です。
これをきっかけに、ほかの国も領事裁判権を放棄しました。
1911年に日米通商航海条約で関税自主権を回復します。日本全権は小村寿太郎です。
60年以上かかりました。
話は戻りますが、日米修好通商条約では、開港場所に変更がありました。
・函館はそのまま
・下田は江戸から遠いので神奈川(横浜)に変更
・新潟、兵庫(神戸)、長崎を新たに開港
ということで、函館・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5港となりました。
ところが、このあとアメリカはしばらく日本史にでてきません。
日米修好通商条約の3年後、内戦が勃発します。
1861年南北戦争です。
このゴタゴタで、アメリカはしばらく日本と関わらなかったのですね。
コレ、いちおう知っといてくださいね。
なお、日本国内では幕府と欧米に対する反感が高まりました。
尊王攘夷運動が巻き起こり、それが尊王討幕運動へと変わっていきます。
こうして、日米修好通商条約の10年後である1868年、江戸幕府は政権を天皇へお返ししました。
大政奉還です。
そして天皇と朝廷は王政復古の大号令を発します。
江戸時代の終焉と明治時代の開始です。
黒船来航からの15年で、日本はひっくりかえるように大きく変貌したのです。
ということで、黒船来航で押さえるべきポイントは以下です。
・鎖国していた日本が開港した
・アメリカ以外の列強に対しても開国した
・その後の条約で不平等条約を締結させられた
・江戸幕府がたおれるきっかけになった
短期間にいろいろと起きていますが、流れをしっかりつかんでいきましょう!
では、また!